目に見えない形での生きた証とは
15年以上月一回バラを取り続けてくれているお店が一軒ある。
そのお店のオーナーは60歳過ぎの女性の方で
無口なので、お互いのことは屋号ぐらいしか知らないし
配達してもお天気の挨拶くらいの間柄だが
毎回バラをご覧にな表情が
私まで嬉しくなるくらいの笑顔で
淡々と続いてきたお客様である。
いつものお店に花を配達に行くと
3回くらいしかお目にかかったことのない
オーナーの娘さんが出て来られて
「母は、昨夜亡くなったばかりなんです。
どうぞ会ってやってください」
とおっしゃる。
驚いて奥のご自宅に上がると
死化粧をした
瑞々しく美しい顔のご遺体があり
しばし別れを惜しませてもらった。
肺がんを長く患っておられたとのことで
覚悟を決めておられたのか
娘さんもオーナーのご主人も涙の痕もなく
私の方がうろたえている。
あまりの急な出来事にびっくりしすぎて
帰りの車の中の気もそぞろで
うちのスタッフと主人に話すと
「お若かったのに残念でしたね」
と私と同じように悲しんでくれたのだが
何か腑に落ちず、とっさに母に電話した。
母はすぐさま
「まあ!びっくりしたやろ~!」
と私を思いつく限りの
いたわる言葉で埋め尽くし
「ゆきに会いたいと思ってくださったんだね。
このお仕事していてよかったね」
と言ってくれた。
私の心が何に揺さぶられていたのか
私が何故母に電話したのか
私自身より本能で察知している母の言葉。
この地球上どこにいても
きっと私のために飛んで来てくれるであろう人の存在に
ほっとして
せき止めていた涙が頬を流れた。
あのお店のオーナーの娘さんも
たまたま配達に行った私を
何の戸惑いもなく家にあげ
挨拶させてくれたのは
離れて暮らしていても
オーナーがバラがお好きだったことや
そのタイミングに来た私に
会わせたいと思った直感めいたものがあったのだと思う。
私が母の存在に感謝し
「自分の子供たちにも
このような母親でいてやりたい」と思ったように
オーナーから娘さんに引き継がれている気持ちも含め
人間が生きた証というものは
このように目に見えない形で残っていくのだと思った。
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